• 諸花於呼

跨ぎ袖【8】

 あとはよろしくとは、何を託されたのか。


「これが、標先生の残していった荷物です」


 黒革の鞄であった。中には「300000000」と書かれ、ラミネート加工された小切手が入っていた。


「今日はこちらに泊まっていかれますか?」

「あ、ああ……」


 いや、おかしい。あまりに話ができすぎている。親父の言う「こういうところ」というものが、一切見受けられなかった。まるで机上の空論だ。


 何か嘘を吹き込まれている。日付を見るとこれはゴールデンウィークに記されたものらしい。ではこの二ヶ月間、小春は一体何を? 何故すぐに僕へ連絡を取らなかった?


 綻びは意外とあっさり現れた。今の今まで座布団の上で正座をしていた小春が倒れたのだ。一瞬何が起こったのか理解できず、やっとの思いで冷静な判断を下し、小春を抱き起こすと彼女は僕のワイシャツの袖に小さく嘔吐した。広がっていく黄土色のシミにまた一つ小さな白いシミができたかと思うとそれは小春の冷や汗であった。


「大丈夫ですか?」

「……え、ええ。大丈夫です。申し訳ございません、すぐにお着替えをお持ちしますので」

「いや、気にしないでください。それより小春さん、こういうことは何度か?」

「いえ、ここ最近ずっと体調が優れなくて……」


 嫌な予感がした。もしかして、親父の「よろしく」とはこのことではないのか。泥水に灰を落としたように胸の中で広がっていく波紋はやがて僕の額に小さな滴を宿して、四肢の末端に染み渡っていくのだった。


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