• 諸花於呼

跨ぎ袖【5】

「ようこそおいでくださいました」

「あ、ああ。ありがとうございます」

「どうぞ中へ」

「お邪魔します」


 僕は一つ、彼女の異様さに気付いて、なんだか上手に舌が回らなかった。


 目を閉じているのだ。はっ、と短く悲鳴が漏れるのを慌てて手でふさぐ。親子で女将を継いできたこの旅館に、彼女が産まれたという事実がいかに残酷か、僕は察してしまった。しかし親父は、何の意図があってここに滞在していたのだろうか。


「こちらで履き物をお脱ぎになってください」


 気付いたときにはもう僕は一階のフロントと思しき場所に通されていて、荷物の一式を彼女に預けていた。それを受け取り、壁にもたれながらカウンターの裏に消えていく彼女を見遣り、僕は僕自身の、なんと気遣いのできぬ男かに落ちこむ。いや、しかし、それは僕を立ち尽くさせる十分な理由では無いことも分かっていた。年端もいかぬ彼女の、得体の知れない妖艶さに気圧されていたのだ。故に恐ろしくもあった。この恐ろしさというのは、僕が彼女に惚れてしまうことを危惧していることに端を発していて、無意識下の僕はとうに一目惚れという状態にあるのだと……いや、端的に言えば、ヤバい、のだ。


「どうかされましたか?」


 不意に声をかけられ、天井の木目しか視界に入っていないことに気付いた。そのまま視線を下げると思いの外近くに彼女がいて、またも僕は後ずさる。


「客間に案内します。ついてきてください」

「分かりました」


 盲目である彼女は壁伝いにしか移動できないようで、先ほど聞こえてきた物音もつまりは慌てて壁に何度も体を打ち付けた音なのだろうと察しがついた。客間の続く薄暗い廊下を歩いて二階に上がると、そこからもまだ廊下が続いていて、僕たちは奥から二番目の引き戸を引いて、漸く客間に着いた。部屋の中は冷房が効いていて寒いほどだ。小春はとっくに起きていて、僕を待ちわびていたのだろうか、いや、予定よりずっと早く来訪したのだからそんなわけはない。とりあえず僕は小春の気配りとして受け止めておくことにした。


 客間自体はというと、僕一人を通すには広すぎるという点を除けば平凡なものだった。数えてみると十二畳もあるのだ。窓の向こうには階下に広がる日本庭園が見え、なんとなくこれも今では陳腐なギミックだった。もはやこういった景観を特別ありがたがる客も少なくなったことだろう。「どうぞこちらへ」


 小春が向かい合わせに敷いてくれた座布団の上に正座すると、袖からペットボトルに入ったお茶を出して僕に手渡してきた。風情がないな。


「申し訳ございません。まだお茶が湧いておりませんのでこのような形で」

「いえいえ、お構いなく。良いところですね」とりあえず褒めておいた。

「ありがとうございます。私、このお部屋の匂いが一番好きで」

「匂い?」

「はい。標先生の喫っていたタバコの匂いです」

「……」


 ここは、親父のいた部屋なのか。言われてみればそんな匂いがしなくもない。僕は正座していた足をあぐらの形に崩して、ポケットのタバコをまさぐり、やがてくしゃくしゃになった一本を指に絡ませ、取り出す。その音で娘は察したようで、部屋の隅から深緑色をした陶器の灰皿を僕の膝の前にそっと置いてくれた。


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