• 諸花於呼

跨ぎ袖【12】

 中島と別れたのは凡そ二時間後で、芳邦に帰る頃にはすっかり夜が更けていた。電話を鳴らして小春に門を開けてもらう、そのとき小春がこちらを見ようとしないので不思議に思うが、昼間案内してもらった通り、一階の浴場に行くと、ライトアップされた日本庭園を臨む露天風呂であった。何かしらの岩で組まれた浴槽に張られた、光揺らめく湯船に肩まで浸かり思わず嘆声を漏らすと、後から入ってきた小春がかけ湯をして、僕の隣へ座った。


「佐久間さん、上を向いてください」

「上?」


 言われるがまま上を見遣ると、殺風景な白い天井があった。


「これはなんだか、勿体ないですね」

「仰るとおりです。もとよりここは都会ですので、星を眺めるとしても、あまり面白みがないのですが、夜空に天井を彩られてこその露天風呂に、このように張り出した部屋があっては……」

「何故ここまでして部屋を?」

「ここに標先生が来られる、数ヶ月前ですかね。うちの旅館はしょっちゅう増改築を繰り返していたのですが、私のおかあさ……」


 小春はここで、一度句を絶つ。


「……失礼しました。女将が突然『部屋を増やす』と仰って、すぐさま着工しました。そののち、標先生がこの部屋を気に入って住み始めたのです」

「ふうん……」


 できすぎた話だと思った。先ほど親父に対して抱いた不信感に拍車をかけるような話だ。もしや親父は女将ととっくの昔に知り合っていたのではないか。それでいて、そ知らぬふりをして、女将に自分の住処をこしらえるよう、指示を出したのではないか。


「佐久間さんは優しいかたなのですね」


 酩酊したまま、僕は「そう、優しい奴なんです」と気もそぞろに答えて、勝手に耳まで赤くなるのを感じた。


「少し触れてもよろしいでしょうか」

「今度にしてください。ちょっと、一人で考え込みたいことがあるんです」

「では下の名前で呼んでも?」

「僕はお客様ですよ」

「はい、それでも」


 下の名前で呼ばれるからって、一体なんだと言うのだろう。それはしかし、彼女のほうに向き直る十分な理由となった。


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