• 黒田明男

みずからゆだる【6】

「ハ~ラショ~」


 ソ連を舞台にした悲恋の物語を、俺は迷わず買って帰り、再生した。


「ハ~ラショ~」


 ソ連が舞台だけに劇中何度も出てくるその言葉を、出てくるたび、毎回たっぷり五秒はかけて読み上げる竹中直人の声を。俺は明るい午後の光の中、昼飯のキャベツよりネギがたくさん入った、うちの母親にしか作れないお好み焼きを食べながら聞いた。


「ハ~ラショ~」


 そうしていると、岡田美津子に関する混乱が、自分の中で形を持った何かに変わっていくようだった。ネギとソースの甘味が竹中直人の声が真っ白な窓からの光が、俺の心を奇妙に整し、いつもなら無視する言葉で考えさせる。


「ハ~ラショ~」


『死後の恋』を買ったからだった。朗読してるのが竹中直人だったからだった。昼飯がお好み焼きだったからだった。真っ昼間の、何も物語らない光の中だったからだった。俺は思った。そう思うことが、その日俺に訪れた運命だった。運命の用意したお好み焼きや中古のカセットブックが、俺にそう思わせたのだった。

 

「ハ~ラショ~」


 俺は、好きじゃない。

 

「ハ~ラショ~」


 俺は思った。


「ハ~ラショ~」


 俺は、岡田美津子を好きじゃない。

 

「ハ~ラショ~」


 でも、吐いた。 


「ハ~ラショ~」


 でも、それは恋じゃない。


「ハ~ラショ~」


 俺は、自分でも気付いてない気持ちを岡田美津子に対して抱いていて、だから岡田美津子がラブホハウスに出入りしてるのを知って吐いたのだけど、でもその気持ちは、恋じゃない。


「ハ~ラショ~」


 では、何なのだ――思って見た先に、文庫本があった。筒井康隆の『アフリカの爆弾』。最近、読んだばかりの本だった。


「ハ~ラショ~」


 俺は思った。


「ハ~ラショ~」


 だがもし、岡田美津子が――


「ハ~ラショ~」


 俺は思った。


「ハ~ラショ~」


 もし、岡田美津子が不幸になったなら――


「ハ~ラショ~」


 それは、俺の責任だ。


「ハ~ラショ~」


「ハ~ラショ~」


「ハ~ラショ~」









 もし岡田美津子が不幸になったなら、俺は彼女に責められ唾を吐きかけられても仕方ないし、そうされるべきなのだ。









 いま俺の前に、闇がある。


 枝葉は濡れ、空気は冷たい――声がした。


「落ちたか――下まで?」

「どっかに引っかかってるか」

「見えねえな」


 俺はいま、声が言った通りの状態だ。崖道から落ち、斜面の途中から茂った木の枝に引っかかっている。全身が鈍く熱く、左腕がひりひりしている。どんな状態かは、怖くて見れない。見てしまったら、もっと痛くなるかもしれない。どんなに酷い怪我だったとしても、見なければ、知らなければ、これ以上痛くはならない。


「まあ、いいか」

「せーの」


 音が、枝を折りながら、すぐ脇を転がり落ちていった。それはきっと、さっきまで俺が乗ってたバイクだ――トラックにはねられ、前輪のひしゃげたバイクだ。


「引っかかってる方がいいか」

「見つからねえなら見つからねえで」

「誰にも見つからねえなら、そのうち死んで」

「そのまま、しばらく見つからねえまんまで」

「まあ、いいや――」


 俺の目の前に、闇がある。


 だが、見えた気がした――声の主が、赤ん坊くらいの大きさの石を、頭上に抱え上げていた。


「ついでだ」


 そして、放った。


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