• 黒田明男

みずからゆだる【2】

 俺が十七歳の頃は、日本もまだ豊かといえた。大人たちは不景気を嘆いていたけど、いま思えばあんなのは、単に気分がパッとしないだけなのを『ここんとこ、鬱でまいっちゃってさ』なんて言ってるのと同じだった。モノアミンの減少で発症する、うつ病とは違う。世間を巡る金は、まだ十分に潤沢だったはずだ。毎日学校に通う、四キロ弱。通学路をたどれば、必ずどこかに建築中の家やマンションがあった。


「この近くで、他校のヤツが補導されたらしいね」


 休み時間、そう耳打ちしたのは同じクラスの山本良雄だった。実際は普通に顔を向き合わせて言ったのかもしれないが、記憶の感触としては耳打ちだ。中低音がのっぺりした、安いスピーカーから聞こえてるような声だった。教室のざわめきを押しのけ、山本は続けた。


「いつも、オニ虎のいる角があるだろ? あの近くの家で」


 オニ虎というのは、朝、通学路の途中で見かける中年男だ。ランニングシャツに短パンという服装で、道の角に立っている。身長はそれ程でもないが、体つきはがっしりしていて、頭は禿げていた。もう何年も前から毎朝毎朝、俺達の通学時間と重なる数十分間、何をするでもなく、煙草を吸ったりすることも無く、ただ立っている。そんな彼を、俺と同じ高校の生徒達はオニ虎と呼んでいて、本名は誰も知らなかった。やはり、何年も前からずっと。そして時々、オニトラの隣に、彼そっくりの、やはり体格の良い禿頭の男が立っていることがあって、そちらはアニ虎と呼ばれていた。


 山本から聞いたのは、こういう話だった。


 いつもオニ虎の立ってる角の近くに建築中の家があり、どういう事情かは分からないが、一ヶ月前から工事が止まっていた。そして他校の生徒で、そこをラブホテル代わりに使うやつらが現れ、数日前、セックスしてるところを見つかり、補導されたのだという。


 数年前、同窓会で会ったとき、山本に言われた。


「いや、いきなり吐いちゃったから、びっくりしたよ」


 俺は憶えてなかったのだが、あのとき、山本の話を聞くなり、俺は吐いてしまったのだという。いま思えば、理由は簡単だ。十七歳の俺にとっても、自明のことだっただろう。


 あの話を、山本は、笑える話として俺に披露したに違いない。でも俺にとっては、そうではなかった。俺にはその舞台となった家がどこなのか、見当がつき。そしてその数日前、岡田美津子がその家から出てくるのを、目撃していたからだった。


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