• 黒田明男

みずからゆだる【1】

 女に唾を吐かれたことはあるか? 顔の真ん中にだ。俺はない。でも想像はできる。相手との関係性や、そのとき彼女がどんな顔をしているか。唾は鼻の下あたりに当たって、驚きと鼻の穴を塞ぐ違和感に、きっと俺は、軽くむせたようになるのだろう。想像は、おそらく細部に至るまで実際と異ならない。


 そうに違いない。


 だが、同時にこうも思っている。違うのかもしれないと。俺の想像とは違った顔で、想像とは違った場所に、そもそも俺の想像には存在すらしなかったパラメーターに支配され、唾は吐きかけられるのかもしれないと。


 そんな風に考えるのは、そういう心の働きが、人間にあるからだ。希望か、恐れかは関係ない。ことの大小も問われない。人間は、自分の想像が覆される可能性に心のどこかを囚われ、同じような諸々に、いくつも縋って生きている。


 世界中の何十億もの人間が、何年か何ヶ月か何日に一度、人によっては一時間に何度も死にたいと思いながら、それでも自ら命を絶つ者の方が少ないのも、いくらかは、それが理由になってるからだろう。


 だからだ、と俺は思う。


 だから俺は、岡田美津子と会うために生きている。再び彼女と会って、顔の真ん中に唾を吐かれる。その瞬間を、俺は、ずっと待っている。


 十七歳のあの日から、ずっとだ。